こんにちは、ぽれんたです。 イタリア生活4年目の42歳主婦です。
38歳のとき、仕事漬けの日々に区切りをつけ、新しい挑戦を求めてイタリアにやってきました。
夫は結婚を機に仕事を辞めていたため、私たちは初めから義実家で同居することになりました。 移住後に仕事と家を探すという状況も理解したうえで、イタリアに来たのです。
義理父との同居は、日本人同士の結婚でも難しい問題ですが、「陽気でフレンドリーなイタリア人ならなんとかなるだろう」と軽く考えていました。
しかし、いざ同居を始めると、文化の違い、言葉の壁、そして義理父の個性が重なり、精神的に自分を追い込んでしまうほど、同居は地獄のように感じました。
今回は、そんな義理父との同居生活の経験を振り返り、その大変さと今に至るまでの出来事をお話ししようと思います。興味がある方は、最後まで読んでいただけると嬉しいです。
理想のイタリア人像
イタリアに来る前、私が思い描いていたイタリア人は、明るく陽気でフレンドリー、オープンマインドで、家族を何より大切にする人々でした。
自己主張をしっかりするけれど、お互いを尊重し合う文化がある、といった良い面ばかりが頭に浮かんでいました。
実際にイタリア移住を決める際には、多くの悩みや不安がありました。お金の問題や義理父との同居、言葉の壁、仕事を辞めるリスク、一度会社を辞めたら後戻りできないことなど、様々な点で迷っていました。
仕事が忙しく、有給休暇を取ってイタリアに行けるような状況でもなく、義理父とはビデオ通話でしか会ったことがありませんでした。
そんな中、義理父に「言葉がわからなくても大丈夫、家族だから助け合うのが普通だ」と言われ、心が少しずつ軽くなっていきました。
夫からも、「父はとても理解のある寛容な人で、尊敬できる存在だ」と聞いており、義理の父がイタリア語を教えてくれるだけでなく、何でも相談できる頼れる存在だと強調してきました。
その話を聞くたびに、15年以上連絡を取っていない自分の父親と比べ、義理父の存在がとても輝いて見えました。
これだけ頼れる家族がいるのなら、きっとイタリアでの生活も順調にいくだろうと期待が膨らんでいったのです。
現実は・・・
実際に生活が始まってから、日を追うごとに私は違和感と居心地の悪さを感じるようになりました。もちろん、育った環境も国も文化も言葉も違うのだから、最初は何でもスムーズにいくとは思っていませんでした。
イタリア語がまだ十分に話せない私が、まずは環境に溶け込むことが必要だと理解していたし、同居させてもらっている身として感謝するのも当然のことです。
郷に入れば郷に従えと自分に言い聞かせ、日々を過ごしていました。
しかし、夫から聞いていた義理父像とは程遠く、一日中テレビの前に座って無言でお酒を飲み、酔いが回ると絡んでくるような状態でした。
次第に文化の違い以上に、何か別の違和感を感じ始めたのです。ひとつが、娘の離乳食に関する出来事でした。
娘がまだ離乳食を始めたばかりの7カ月の頃、私は日本から持ってきた離乳食を娘にあげていました。
しかし、娘が食べ物を吐き出したため、私が口を拭いていたところ、突然義理父が娘の座っていたベビーチェアを自分の方に引き寄せました。
何かを言いながら、いきなり自分が食べていたトマトパスタのソースを娘に食べさせ始めたのです。
後でわかったことですが、その時義理父は「美味しくない物を食べさせられて可哀想に、おじいちゃんが美味しいものをあげるよ」と言いながら、トマトソースをあげたようです。
当時、娘はまだどの食材にアレルギーがあるかわからない時期で、塩味もついていない食事しか与えていませんでした。そのため、驚きと不安でいっぱいになりました。
虫歯の心配もあり、私は娘には専用のスプーンで食事をあげていたのですが、義理父は自分のスプーンで塩味の効いたトマトソースを7カ月の娘に与え始めました。
夫が状況に気づき、慌てて義理父を止めようとしましたが、義理父は夫の言葉を完全に無視。
それどころか不機嫌な態度を見せ、私たち夫婦だけでなく、7カ月の娘までも無視するようになりました。この状況は3日間も続きました。
コントロールフリーク?
このようなことが何回も続いたあと、私はふと「義理の娘だからこんな扱いを受けるのかもしれない」と思うようになりました。だからこそ、家がみつかるまでの我慢だと思い、娘のためにも義理父が過ごしやすいように努めました。
イタリア語が少しづつわかるようになってきたある時、また小さないざこざがあり、夫が義理父に事情を説明していました。その後、夫がその場を離れた直後、義理父が私に向かって夫を馬鹿にするようなジェスチャーをし、「あなたの夫は馬鹿だ」と言ってきたのです。
義理父にとっては冗談のつもりかもしれませんが、私には何一つ面白くありませんでした。息子のやることは全て、義理父より劣っていて愚かなことをしている、そう感じさせる一幕でした。
その時、義理父は息子である夫を自分の考えや計画、流れの中でコントロールしようとしているのだと、ようやく理解しました。義理の娘ならなおさらだったのでしょうか。
夫曰く、「亡くなった母親は意見を言えばすぐ否定してくるタイプで、父親はその時は何も言わなかったので、自分にとって美化されていた。しかし、同居を始めて改めて気づいたのは、父親も自分の話を全く聞いてくれない」ということでした。
私も良好な関係を保つために努力しましたが、実の息子ですら話を何も聞いてもらえず、結局は聞き流すか我慢して見て見ぬふりをするしかない状態であれば、義理の娘である私に何ができるでしょうか。
そんな状態が2年半も続きました。家もなかなか見つからず、同居を続ける以外に選択肢はありませんでした。
些細な出来事
そんなある日、私はついに限界に達しました。
義理父に、また無視されたのです。
もう無理かもしれない、と感じながらも、何とか踏ん張ろうと努力しました。私は義理父に「もし私が悪いことをしたのなら謝ります。でも何をしたのかわからないので教えてください」と言いました。
すると義理父は、「昨日のあなたの態度は、親切にしてあげた私に対してとても失礼だ」と言いました。私がどこが悪かったのか尋ねると、義理父は夕食の準備に関して不満を抱いていたことがわかりました。
その日、私は夕食の準備を先にしていたのですが、義理父もチキンを用意し始めたので、量的に自分で食べるのだろうと思っていました。
しかし、実際には私たちにも自分が用意した料理を食べて欲しかったのです。私は量が足りるかどうかを確認するために、夫に相談してから判断しようとしました。その行動が義理父の気に障ったようでした。
そのため、私は「嫌な思いをさせてごめんなさい」と謝りました。しかし、その後も義理父の態度は変わることはなく、「これ以上無理だ」と感じました。
精神的に追い詰められていた私は、夫とも大喧嘩になりました。そして次の日、私と娘は日本行きの飛行機に乗ることになったのです。
葛藤と決意
同居生活は私にとって大きな試練でした。義理父の生活習慣に合わせて生活せざるを得ず、私たちが嫌なことは我慢して続けなければならない一方で、彼が嫌がることは決して変えてはならないという暗黙のルールがありました。
私たちの提案や意見が却下される日々が続き、不衛生な生活習慣や矛盾した行動も、私の心をすり減らしていきました。
日本に戻った6か月間は、自己を取り戻す貴重な時間となりました。家族の支えや友人との交流の中で、心の平安を再び手に入れることができました。
しかし、私はただ日本に留まり続けるわけにはいきませんでした。家を購入するためには、イタリアに戻る必要がありました。
心の奥底では、これ以上義理父と同居生活を送るべきではないと感じていましたが、それでも自分たちの家を手に入れなければ、いつまでも状況は変わらないという現実もありました。
そうして再びイタリアに戻ることを決めた私ですが、以前とは違う心構えを持つことになりました。
次回は、再びイタリアに戻った私が、義理父との同居生活にどう向き合っているのかについてお話します。
最後まで読んでいただきありがとうございました!